静かな職人の朝は、江戸の夜明けとともに始まる。
水と大豆と、わずかな火。
一丁の豆腐に、命をかけた男の一日を追う。
■ 未明 ― 水と静寂の刻
まだ夜も明けぬ丑三つ時。
豆腐屋の長屋には、水を汲む音が響く。
桶に満ちる井戸水は冷たく、澄んでいる。
「水が命だ。焦ると味が死ぬ」
店主の口癖だ。
大豆を研ぎ、臼でひく。
湯気の立つ釜の中に、豆乳の白が浮かぶ。
そこににがりを落とす。
指先が覚えている分量。
多ければ石のように硬く、少なければ崩れて水に戻る。
静寂の中、ゆっくり固まっていく豆腐を見つめながら、
職人の目は光る。
この瞬間だけは、誰にも邪魔されたくない。
■ 明け方 ― 江戸に朝が届く
東の空が白み始める頃、
天秤棒に桶を吊るし、豆腐を入れた笹舟を担ぐ。
「とうふ〜、とうふ〜」
低くやわらかな声が、江戸の長屋を起こしていく。
籠の中には、まだ温かい豆腐。
手ぬぐいで覆い、湯気を逃がさぬように運ぶ。
常連の女房が出てきて言う。
「おやじさん、今日のはきれいだねぇ」
「へい、水がよかったんで」
豆腐一丁八文。
だが、その八文に、夜通しの仕事が詰まっている。
■ 午前 ― 商いと人情
朝食に間に合うよう、町中を回る。
行灯の明かりがまだ残る長屋、
朝支度の屋台、寺の台所。
豆腐屋は、江戸の“最初の客”と“最初の声”を聞く人間だった。
「おばあさん、歯が悪いなら絹ごしにしときな」
「ありがとうねぇ、おまえさんの豆腐が一番柔らかいよ」
笑いと声が交わる。
豆腐屋は商人であり、
人々の朝を見守る無言の隣人でもあった。
■ 昼 ― 仕込みの静けさ
昼過ぎ、店に戻る。
朝の喧騒が嘘のように静かだ。
鍋を洗い、布を干し、次の仕込みに備える。
釜の底を覗きながら、弟子に言う。
「焦げた匂いはな、豆腐の恥だ。
でも、手に残る匂いは職人の証だ」
湯気に包まれた工房は、まるで祈りの場。
豆腐を作ることは、
水と火と人の呼吸を合わせることだった。
■ 夕刻 ― 一日の終わり
日が暮れると、また桶を洗い始める。
川面に月が映る。
その光を見ながら、店主は小さく笑う。
「今朝の水と、同じ月だ」
豆腐屋の一日は、夜明けに始まり、月明かりに終わる。
眠る間も惜しんで働くが、誰も見ていない。
それでもいい。
見えぬところで町を支えるのが、ほんとうの職人だから。
■ ナレーション(締め)
豆腐は、江戸の朝の象徴だった。
一丁の白に、火と水と技が宿る。誰に褒められずとも、
町の台所に並ぶだけで、役目は果たされる。――夜明けに起き、月を見て帰る。
それが、江戸の豆腐屋の生き方だった。
次回は「江戸・船頭の一日|川が道で、風が友だった」です。
参考・参照リンク(江戸時代)
※本カテゴリの記事は上記の史料・展示情報を参考に再構成しています。
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